2016年9月30日金曜日

アジア太平洋ジャーナル/@JapanFocus【菅直人氏インタビュー】3.11☢惨事と日本の核発電の将来を見直す


アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス
アジア太平洋と世界を形成する諸力の分析

2016915
Volume 14 | Issue 18 | Number 1

3.11核惨事と日本の核発電の将来を見直す
――菅直人元首相インタビュー

取材:ヴィンセンゾ・カポディチ
序論:ショーン・バーニー
翻訳:リチャード・ミネア

菅直人
民主党政権下の20106月から20118月にかけて、日本の首相。東京工業大学を卒業。2015年以降の国際開発に関する高級レベル国連パネルの評議員を務める。

Shaun Burnie 
ショーン・バーニーは、グリーンピース・ドイツの核スペシャリスト。1991年からグリーンピースの核問題啓発運動員および世話人として活動し、日本で――1999年から2001年にかけて、東京電力のフクシマ反応炉MOX燃料装填計画の阻止をめざす市民運動を支援するなど――25年間あまり活動している。

Richard H. Minear 
リチャード・H・ミネアは、マサチューセッツ大学アムハースト校で日本史を担当する名誉教授、アジア太平洋ジャーナルの寄稿者にして編集員。“Hiroshima: Three Witnesses(Princeton, 1994)[ヒロシマ~3人の目撃証言者]の編者・訳者であり、著書に“Japan’s Past Japan’s Future: One Historian’s Odyssey(Rowman & Littlefield, 2011)[日本の過去と日本の将来~ある歴史家のオデッセイ]、“The Day the Sun Rose in the West: Bikini, the Lucky Dragon, and I(Hawaii, 2011)[太陽が西に昇った日~ビキニ、福竜丸とわたし]など。

序論

世界の核産業は20年以上にわたって、核発電に関する論争を気候変動の語り口の枠内に押し込めようと企んできた。核発電は他のいかなる選択肢よりも優れているというわけである。そのように議論は進行した。既存の二大市場、米国と日本における野心的な核発電拡大計画、そして中国における核発電の成長は、このテクノロジーには未来があると――少なくとも皮相的には――示しているように思えた。少なくとも政治のレトリックやメディアの受け売りの観点では、この主張が論争に勝っているように見受けられた。そして、2011311日が到来した。核エネルギー推進派の最右翼は、核エネルギー拡大の理由として、福島第一核発電所事故を挙げることさえした。影響は少なく、だれも死んでいないし、放射線レベルにリスクはないというわけである。国際的な(とりわけ英語圏の)メディアにも、このように主張したコメンテーターが少数ながらいた。

しかし、2011311日、福島第一核発電所で事故が勃発した当初から、核エネルギーの厳しい現実が、世界全域、数十億の人びとの目に暴露され、とりわけ、核災害によって避難を余儀なくされた160,000人を超える人びと、また最悪シナリオが現実になっていた場合、危険にさらされていたはずの、さらに数百万の人びとを含め、日本国民にはなおさらのことだった。核産業とその支持者らによる神話でっちあげの暴露を主眼としてきた有無を言わせぬ際立った声が、2011年当時の総理大臣だった菅直人氏の見解表明である。推進論者から手厳しい批判論者への彼の転向は容易に理解できるかもしれないが、それをもって、その賞賛すべき勇気の値打ちが下がるわけではない。本質的に高上りの湯沸かし方法である技術によって、首相が奉仕し、守ってもらえるように選出してくれた主権者の半分の生存が脅かされるとすれば、どこか明らかに間違っている。主に損壊した核発電所の労働者たちの献身的な働きのおかげであったが、それと同時に菅氏と彼の配下たちによる介入のおかげ、また運のおかげで、日本は社会の崩壊を免れた。4号炉の冷却プールの水位を維持した漏れのあるパイプがなかったとすれば、直前に圧力容器炉心部から取り出されたばかりの炉心全体を含め、プール内の高度に照射された使用済み燃料が露出し、他の反応炉3基から放出された分より遥かに大量の放射能が放出されていただろう。その後、次々と連鎖的につづく事象のために、他の反応炉でも、その使用済み燃料プールを含め、全体的な制御不能に陥り、菅元首相が恐れたように、東京首都圏全域まで拡大した大量避難を余儀なくされただろう。日本の元首相のうちの3名が核発電にただ反対しているだけでなく、積極的に反対運動を展開しているのは、世界の政界で前例のないことであり、フクシマが数千万人の日本国民に投げかけた脅威の規模を証ししている。

核エネルギーは、発電量に占める占有率の点で、また再生可能エネルギーとの関連で、これまで20年にわたり世界的に衰退しつつあり、これが現実である。福島第一核発電所の事故以来、この衰退傾向は激化する一方になっている。核産業は、[放射能の]世界排出量に深刻な影響をおよぼすレベルまで核エネルギーの規模を拡大できないことを十分に承知していた。だが、それが眼目ではなかった。業界は生き残り戦略として、気候変動論争に跳びついた。既存の老朽化した反応炉の延命を確かなものにし、これから数十年間に新規核発電容量を――少なくとも中核的な核産業基盤が今世紀半ばまで生き残ることが可能になる程度まで――積み増しすることができるようにするためである。夢は今世紀半ばまで生き残ることであり、その時になれば、商業用プルトニウム高速増殖炉、その他の第4世代設計型炉によって、無制限エネルギーが実現するだろう。これはいつでも神話だったが、電力会社、核関連供給業者、業界とつるんだ政界にとって、商業的・戦力的な根拠があった。

福島第一核発電所事故の根本原因が生じたのは、2011311日よりずっと前、他にほとんど類がなく大規模な地震活動に襲われやすい国で、反応炉を建造し、運転すると決定した時に遡る。5年あまりたった今も、事故はこれから数十年先まで累がおよぶレガシー[遺産]を伴いながら継続している。日本における次なる破局的な事故を防ぐことが、いまや元総理大臣の情熱になっていて、その彼は、再生可能エネルギーを基盤にする社会へと移行することに意を決した日本国民の多数派に加わっている。日本の核エネルギーに引導を渡すのは可能であるという点で、彼は確かに正しい。電力業界は、稼働している反応炉が3基だけに限られ、国内各地の裁判所で法的に異議を申し立てられ、危機のさなかにある。政府がどのような政策を選ぼうとも、六ケ所村でのプルトニウムの分離ともんじゅ増殖炉やその幻想的な後継炉でそれを使用することにもとづく、日本の核燃料サイクル政策全体の根拠は、これまでになく劣悪な状態に陥っている。だが、菅直人氏がたいがいの人よりよくご存知のように、これは体制の内部に組み込まれた産業であり、いまだに絶大な影響力を振るっている。これを打倒するためには、断固たる意思と捨て身の努力が必要とされるだろう。幸いなことに、日本の人びとはこの資質にたっぷり恵まれている。SB[署名]

インタビュー

Qあなたのメッセージの核心は、どのようなものでしょうか?

菅氏:わたしもまた、フクシマ反応炉の事故が起こるまで、日本の技術は優れているので、チェルノブイリのようなことにはならないと自信をもっていました。

だが、現実にフクシマに直面して、わたしは完全に間違っていたと思い知らされました。なによりもまず、惨事の瀬戸際に立っていると悟りました。これはほんの序の口に過ぎず、国土の半分、東京首都圏の半分が放射能に汚染され、50,000,000人の国民が避難しなければならないところでした。

  福島第一核発電所の爆発を捉えた衛星写真

国土の半分が放射能で覆われ、人口の半分近くが逃げなければならない。考えられる限り、比べられるものは大戦争の敗北だけです。

リスクがそれほど途轍もなく大きかったこと、このことこそが、みなさん全員、日本国民のすべて、世界人類全員、イの一番に知ってほしいことです。

Qあなたご自身が自然科学者でいらっしゃるが、それなのに人間は核の力を扱えるという分析を端から信じておられないのですか? 技術が進歩し、最終的に核発電を使っても安全になるとは信じられませんか?

菅氏:一般論として、あらゆるテクノロジーにリスクはつきものです。たとえば、自動車は事故を起こしますし、飛行機も墜落します。だが、事故が起こるとすると、リスクの規模がその技術を使用するか否かといった問題に影響します。技術を使用する場合のプラス面と使用しない場合のマイナス面を比較するのです。核反応炉の場合、フクシマの事例では、そのリスクは、すんでのところで50,000,000人が避難しなければならないほどだったとわたしたちは思い知りました。さらにまた、たとえ核反応炉を使わなかったとしても――じっさい、事故のあと、核発電を使わなかった時期がほぼ2年間あったのですが、国民の福利に大きな影響はありませんでしたし、経済的影響もありませんでした。ですから、これら要因全体を考慮すれば、広い意味で核発電を使うメリットはありません。これがわたしの判断です。

もうひとつ言わせてください。核発電と他のテクノロジーの違いについていえば、要するに放射能の管理が極めて困難だということです。

たとえば、プルトニウムは長期にわたって放射線を出します。半減期が24,000年であり、核廃棄物はプルトニウムを含んでいますので――たとえ放置して使わずに廃棄処分するにしても――その半減期は24,000年、実質的に永久です。だから、これは使うにしても――付け加えておきたい点ですが――非常に厄介なテクノロジーです。

Q少し前、プラッサー教授の講演で、第三世代反応炉なら、リスクを避けることができるとされていました。どのようにお考えですか?

菅氏:それはフボストーフ教授がおっしゃったことと同じ類いのことですね。核反応炉がたくさんあったとしても、フクシマ核事故やチェルノブイリ規模の事象は100万年に一回しか起こらないと言ってきました。だが、現実として過去30年間に、スリーマイル・アイランド、チェルノブイリ、フクシマと立て続けに事故は起こりました。プラッサー教授は段階的に安全になっているとおっしゃいますが、事実として、事故は予測を超えて頻繁・大規模に発生しています。プラッサー教授がおっしゃるとおり、部分的な改良は可能ですが、だからといって、事故が起こらないわけではありません。装置が事故原因になりますが、人間も事故原因になります。

Q今日はフクシマ事故から5年目です。目下、日本の状況はどうなっていますか? 2018年に避難民を自宅に帰還させはじめる計画があると聞いています。どの程度、汚染除去が完了しているのですか?

菅氏:フクシマの現場の状態を見てみましょう。1、2、3号炉がメルトダウンを起こし、溶け落ちた核燃料がいまだに格納容器に沈着しています。毎日、それを冷却するために注水しています。2号炉の容器内の放射線量は、70シーベルト――マイクロシーベルトでも、ミリシーベルトでもなく――70シーベルトです。70シーベルトの放射線が照射されている区域に人間が近づくと、5分以内に死にます。この状況がずっと続いているのです。それが現在の状況です。

さらに言えば、注入される水は格納容器から出て、再循環されるといいますが、じっさいには地下水と混じりあい、一部は海に流出します。安倍首相は「アンダー・コントロール」ということばを口にしましたが、わたしも含めて、日本の有識者らは、一部が海に流出しているなら、アンダー・コントロールであるとは考えません。専門家のみなさん揃って、こういう見方をしています。

現場の外側の地域についていえば、100,000人を超える人びとがフクシマ地域から逃げました。

そこで政府はいま、住宅の除染を推し進めていますし、それだけではなく農地の除染を進めています。

土壌を除染しても、放射能は一時的か部分的にしか減りません。たいがい、セシウムは山から降りてきて、元の木阿弥です。

福島県と政府は、除染が完了した一定地域は居住が可能になったと言っていますので、住民は2018年までに帰還しなければなりません。おまけに、その期限がすぎると、県と政府は逃げた人たちに支援を提供しないつもりです。だが、まだ危険であり、みずからの判断で――わたしたちが言っているように――まだ危険だと考える人たちにも同じレベルの支援の提供を県と政府はつづけるべきです。

現場の状態と逃げた人たちの状態を考えると、除染は完了したと単純にいえません。

Qフクシマ事故以来、あなたは核反応炉廃絶の有力な提唱者になられました。でも、結局、安倍氏の政治体制が政権の座につき、逆の方向に進んでいます。いま3基の反応炉が稼働しています。現状を見ていて、怒りを覚えておられますか?

菅氏:安倍首相がやろうとしていること――彼の核反応炉政策やエネルギー政策――は明らかに間違っています。わたしは現在の政策に強く反対しています。

だけど、逆戻りの動きは着実に進行しているでしょうか? 3基の反応炉がじっさいに稼働しています。しかし、言い換えれば、3基しか稼働していないことになります。なぜ3基だけなのでしょう? たいていの人――国民の半分以上――がいまだに強固に抵抗しています。今後、たとえば、新規核発電所の建設、あるいは既存核発電所の運転認可期間延長ということになれば、反対世論は極めて強硬になり、たやすく実現するどころの話でなくなります。その意味で、日本における今日の状況は、核発電回帰に熱中している安倍政権と核発電撤廃をめざしている国民の激烈な対立――綱引き――状態なのです。

安倍首相の最も近い助言役の二人が彼の核エネルギー政策に反対しています。一人は彼の妻です。もう一人は、安倍氏を引き立てた小泉元首相です。

Q最後の質問です。10年以内に日本が核エネルギーを廃止する可能性があるか否か、お話しください。

菅氏:長期的には、核エネルギーは段階的に廃止されるでしょう。でも、今後10年で廃止されるのかとお尋ねなら、わたしには言えません。たとえば、わたし自身の党の内部でも意見が分かれています。一部の向きは2030年代には廃止したいと考えています。ですから、今後10年で完全に廃止できると言えませんが、長期的には、たとえば2050年か2070年には完全になくなっているでしょう。一番重要な理由は、経済です。他のエネルギー形態と比較すれば、核エネルギーのコストが高上りであることが明らかになっています。

Qありがとうございました。

【クレジット】

The Asia-Pacific Journal, Volume 14, Issue 18, Number 1, “Reassessing the 3.11 Disaster and the Future of Nuclear Power in Japan: An Interview with Former Prime Minister Kan Naoto,” posted on September 15, 2016 at;

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201636日日曜日


【関連ニュース】
――――――
2016年10月9日更新…

【付録】

2016年9月28日水曜日

WNN【第60回IAEA総会】石原宏高・政府代表「フクシマ廃炉事業と汚染水管理は着実に前進」








日本の閣僚、フクシマ後の「着実な前進」を示す
Japanese minister charts 'steady progress' after Fukushima

2016927

日本の石原宏高・内閣府副大臣26日、第60回・国際原子力機関(IAEA)総会において、東日本大震災から5年半たって、福島第一核発電所の廃炉事業と汚染水管理で「着実な前進」が成し遂げられていると述べた。石原氏は、除染と環境の修復が「前向きに進展」しており、避難区域が「縮小」していると語った。

石原氏は、日本が今年の4月、IAEAの協力を得て、第1回「福島第一廃炉国際フォーラム」を開催したと指摘し、IAEA総会出席のためにウィーンに参集した代表団に向けて、「わが国は廃炉および汚染水の管理について、世界の目に見えるよう、透明な形で前向きに取り組みつづける所存でありますし、また、この事故から学んだ教訓を国際社会と共有してまいります」と述べた。

石原氏はさらに、「わが国はまた、日本で生産される食品の安全性を保証するため、不断の努力をつくしてまいります。すでに多数の国ぐにが日本からの食品輸入に対する制限を解除していることに鑑み、わが国は、国際社会が科学的証拠にもとづく輸入政策を実施なさるように奨励いたします」とつづけた。

石原氏は、核エネルギーは「安全性が確保されるかぎり」、安定供給、経済効率、温室効果ガス削減の観点から重要なベースロード電源であると述べた。さらに、「日本政府は、福島第一施設における事故のあとに制定された新たな規制要件に合格する核反応炉の再稼働を計画しております」とつづけた。

日本は「具体的な目的なしにプルトニウム保有なしの原則を堅持いたします」と、石原氏は強調した。「日本はこの観点に立って、8月に再稼働した伊方核発電所3号機をふくめ、実効的なIAEA安全措置にもとづき、軽水炉でプルトニウムを着実に使ってまいります。日本はこの原則にしたがって、年刊『プルトニウム管理状況報告』、ならびに再処理事業管理の強化を目的とした20165月法制などの手段をふくめ、国内のプルトニウム利用の透明性と確実性をさらに増強するために追加的な努力を重ねております」と、石原氏は演説した。

調査・記述:世界核ニュース

【クレジット】

World Nuclear News, “Japanese minister charts 'steady progress' after Fukushima,” posted on 27 September 2016 at;

【付録】

60thGeneral Conference - International Atomic Energy Agency

外務省【報道発表】60回国際原子力機関総会の開催平成28923日)


Wikipedia石原 宏高

石原 宏高(いしはら ひろたか、1964619 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(3期)、内閣府副大臣(第3次安倍第2次改造内閣)。

父は環境庁長官、運輸大臣、東京都知事、日本維新の会共同代表を歴任した次世代の党最高顧問の石原慎太郎。叔父は俳優の石原裕次郎。長兄は自民党幹事長、環境大臣などを歴任した石原伸晃。次兄はタレントの石原良純。弟に画家の石原延啓がいる。男4兄弟の三男。




2016年9月27日火曜日

集会「虹の彼方へ」【たたかいの現場から】暗闇のなかに希望を見つけていきたい

2016924
394
支援連ニュース
東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議

5年連続集会「虹の彼方へ」
第4回 「直接行動」という「暴力」をめぐって

〈たたかいの現場から〉発言要旨

暗闇のなかに希望を見つけていきたい
井上利男

きょうの酒井さんのお話を聞いていて、ずいぶん懐かしいなと思いました。向井孝さん、松下竜一さん、このお二人を懐かしいと言うと歳がばれるというものですけど、向井さんは、わたしが奄美大島の宇検(うけん)村というところで、石油基地反対運動をしていたときに出会っているんです。1973年、奄美の枝手久(えだてく)島という小さな島に、東亜燃料工業というエクソン系の石油会社が巨大石油備蓄基地を計画しました。枝手久島の小さな山を均して、その土を海面に埋め立てて石油基地を造るというものでした。

故・向井孝さん
松下竜一『五分の虫・一寸の魂

その反対運動にわたしたちが加わったとき、枝手久島現地に開墾小屋を造って、そこでサツマ芋を植えたり、漁業に参加したりするという運動をしていました。これも一種の直接行動ですね。そして、海面を埋め立てるために漁業権の放棄を漁協に迫るとなれば、漁協の協力が必要ですから、その工事を阻止するためには漁協の組合員になる必要があって、反対派が3分の1いれば漁業権放棄が成立しません。そういう闘い方をしていました。

枝手久島・鈍の浜にて。右端は(若き日の)筆者
 枝手久島の開墾小屋には「無我利道場」という名前をつけたんですね。我々の利益はないという意味合いの漢字になりますけど、ムガリというのは奄美の方言で「偏屈者」とか「なにかにつけて逆らう者」という意味があるんです。だから、ピッタリの名前だと思いました(笑)。そこに向井さんが見えられたんですね。わたしたちはヒッピーですから、マリファナとかLSDなんてのをやっていたわけです。マリファナを向井さんも試してみて、「効かないなあ、効かないなあ」って一晩中言っているんですよ。それを見ながら、「効かないと言うトリップに入っている」って冷やかしていたんです(笑)。

そういうことで向井さんとの交流が始まりまして、わたしは出身が阪神大震災の現地の神戸なんですけど、神戸に里帰りしたついでに、大阪の旭町の向井さんのアパートに遊びにいったんですね。そこで、「これから女たちの反原発のデモがあるから、井上さんも行ってみますか?」と誘われて行ってみました。そうしたら非常に面白いデモで、乳母車も5、6台参加しているんです。機動隊は「速く歩け」という感じでせかすけど、ときどき先導車のスピーカーから「おむつタイム!」って聞こえてきて、そうしたら一斉に乳母車が止まっておむつ交換が始まるんです(笑)。そういう感じのデモで、大阪という街は面白いし、また、向井さんは柔らかい精神の人たちと付き合いがあるんだなと感心しました。

それでわたしは現在、福島県の郡山に住んでいるんですけど、「原発いらない金曜日!郡山駅前ひろばフリートーク集会」というものの世話人をやらしてもらっていますので、のぼりとかスピーカーを自転車に積んで、毎週1回、金曜日に郡山駅前に出かけています。


そこでいつもしゃべっていることは、「放射能は物理的に目に『見えない』だけではない。社会的、政治的に『見えなくしている』。そして、わたしたちとしても、心理的に『見たくない』。この一種の被曝地戒厳令状況が成立している」ということなんです。放射能は実際に見えないけれど、モニタリングポストを見れば通常の線量よりも高いから、放射能があることはわかる。おまけにいま166人ですか、福島県内の子どもたちに甲状腺がんの疑いが持たれています。疑いといっても、99・9%までは確定と言っていいんです。手術が終わるまでは疑いと言われるだけのことです。しかも、いままで167人のうち、手術して良性だとわかったのは一人だけでした。

かなりの高率で甲状腺がんが発症して、「放射能との関連性は考えられない」と最初は発表していたんですね。それが段々症例数が増えてくるにつれて、最近は「考えにくい」に替わったんです。だれが見ても、これは放射能の歴然たる影響としか考えられないのに、それでもものが言えない。そういう状況ですから、これは戒厳令そのものだと思います。

またこの戒厳令は、警察力とか軍事力という形では目に「見えない」んですね。そして、戒厳令が敷かれていたとしても、メディアが総力を挙げてそれを「見させない」んです。例えば、この4月に、基準値よりも線量が下がったということで、金山町というところでヒメマス釣りが解禁になりました。NHKはうれしそうに「ようやく解禁になりました」と報道したんですけど、ところが、計った数値を全然教えてくれないんです。そういう形で、一切見させません。そして、こういううっとうしい戒厳令状況に自分たちがまさか生きているとは思いたくないですから、心理的にも「見たくない」。ですから、被曝地の戒厳令と放射能の放出とがまったく表裏一体となっているわけです。
 それと、今年に入ってから、春先にかけて伊達市というところで大規模な山火事がありました。阿武隈山地で2日間燃えたんです。ところがチェルノブイリの場合も、いま火事が起こりやすい条件が整っていて、ヨーロッパでは大変心配されています。というのは、放射能で微生物の働きが不活発になるからで、そうすると倒木が腐らなくなってしまうんです。あるいは落ち葉がそのまま残る。立入禁止区域とかでそういう山火事が起これば、林道とかも全然管理されていませんから、消火も難しくなります。そうなれば、沈着している放射能が煙と一緒に舞い上がって、再び拡散するんじゃないかと、それがヨーロッパでも恐れられているわけです。福島の山火事のニュースは県内でも報道されましたけれども、放射能の拡散についてはまったく触れていませんでした。




ひどい例では、除染したあとの枝葉とか表土はフレコンバッグに詰めて保管するんですけど、ところがフレコンバッグにも詰めないでその草木が積まれていたんですね。しかも、それが自然発火してしまったわけです。それも福島県内のニュースで報道していましたけれど、見ていたら、消火に当たっている消防隊員はだれもマスクをしていないんですよ。放射性廃棄物の噴煙ですよ、そこに放射能が含まれていることは明らかですよね。ところがだれも気にせず、マスクを付けずに消火に当たっている。これがまさに、目に見えない被曝地戒厳令の状況なんだと思います。

そういう状況と日々向き合っているんですけれども、郡山駅前で毎週金曜日にフリートーク集会を開くことになったきっかけは、2012年の野田内閣のときに、大飯原発を再稼動するというのに対する反対運動ですね。その反対の機運が盛り上がったときに、「郡山でもやろうじゃないか」ということで始まったんです。始まったときは勢いがありますから、30人くらいのこじんまりとした人数でやっていたんですけど、ところが毎週毎週何年も続けていくというのは精神的、肉体的にもエネルギーが必要ですから、段々人数は減っていって、いまの参加者はわたしを含めて2人か3人(笑)。それでもとにかくやっています。だけど、今年の6月で始めてから満5年になるわけですよね。そうすると、これは簡単にはやめられないなと思っています。

わたしが翻訳した本で、レベッカ・ソルニットという人の『暗闇のなかの希望―非暴力からはじまる新しい時代』(七つ森書館)というのがあります。レベッカさんは反戦運動や環境運動などオールラウンドで活躍している非暴力直接行動の人なんですけど、「作家の仕事は、その結果は自分ではわからない。ひょっとしたら書いた本が、その作家が亡くなったあとにだれかに影響を与えるかもしれない。それが作家の仕事だ」と語っているんですね。


『暗闇のなかの希望~非暴力からはじまる新しい時代』
彼女の挙げている例を紹介すると、スポック博士(小児科医師)がホワイトハウスの前を歩いていたら、女の人たちが「大気圏内核実験を中止せよ」と訴えていたそうです。それを見てスポック博士は、「わたしも核実験に反対しなければだめだ」と思います。ところが、抗議していた女の人たちは、スポック博士が見ていることに全然気がつかなかったわけですね。何年かあとに、その抗議に参加していた人が、たまたまスポック博士の講演でそれを知ることになります。これが運動というものなんです。自分がいま、なにかをむきになってやっていれば、だれかが見ている。だけど、見ているということは自分にはわからない。明日のこともわからない。それがいいんだ。暗闇のなかに希望を見つけていきたい、とレベッカさんは語っています。

わたしもそういうつもりで細々と諦めず、子どもたち、孫たちを守るために、「見えない放射能を自分の目で見てください」「見たものはなにかを自分の頭で考えてください」、そして「自分の声で叫び声を上げてください」と、毎週これからも伝えていきたいと思います。

ありがとうございました。

(井上利男。「#原発いらない金曜日!」郡山フリートーク集会世話人。ブログ「#原子力発電_原爆の子」。ツイッター:@yuima21c

【付録】

レベッカ・ソルニット『暗闇のなかの希望
1.「暗闇を覗きこむ」からの引用――

いつも家に帰るのが早すぎる。いつも成果を計算するのが早すぎる。「女性のためのストライキ運動(WSP=the Women's Strike for Peace)」は、アメリカ初の大規模な反核兵器運動であり、母乳や乳歯から検出される放射性降下物の放出源となる地上核実験の終結を実現した一九六三年の大勝利に寄与している。(WSPは、当時の上院非米活動委員会の場で、みずからを家庭の主婦と位置づけ、ユーモアを武器として反共尋問をあざけり、委員たちの権威を失墜させるという貢献もした) 

ひとりのWSPの女性は、ある朝、ケネディ大統領が執務するホワイトハウスの前で行われた抗議行動に加わり、雨のなかに立っていて、ばかばかしくなり、なんというくだらないことをやってるんだろう、と思ったという。ところが何年もたってから、核兵器問題の活動家たちのなかでもっとも著名で重要な存在だったベンジャミン・スポック博士が、「わたしにとっての転機は、女性たちの小さなグループが、ホワイトハウスの前で雨に打たれながら、抗議しているのを見かけた時であり、あの人たちがあんなに熱心にやっているのなら、わたしも問題をもっと真剣に考えなければならないと思ったのです」と語るのを、彼女は聞いたそうである。

因果の法則は、歴史をとうぜん前進するものであると仮定しているが、あいにく歴史は軍隊の行進ではない。歴史は急ぎ足で横這いするカニ、あるいは石を穿つ、やわらかな水の滴り、数世紀かけて蓄積した地殻の歪みを解き放つ地震なのだ。たったひとりの人がある運動に活気を与えることもあれば、ひとりの人の言葉が、数十年も後になって実を結ぶこともある。時には、少数の熱烈な人びとが世界を変え、大衆運動を先導し、数百万の人びとの行動を招きよせる。時には、その数百万の人びとが、憤りや理念を共有し奮起することで、あたかも天気が変わるように、世界が変わることもある。すべてに共通していることとして、想像することや、希望を育むことで、変化は始まるということ。希望をもつということはギャンブルである。希望は、未来や欲求に賭けることであり、開かれた心や不確かなものが、沈んだ心や安全なものに勝るかもしれないという可能性に賭けることだ。生きることじたいが冒険なのだから、希望をもつということは、危険であり、それでいて希望は恐怖の対極にある。

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