2015年10月12日月曜日

英紙ガーディアン【ルポ】ついに安全になった? 楢葉からの光景…フクシマで初めて居住適地と宣言された町


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ついに安全になった? 楢葉からの光景
フクシマで初めて居住適地と宣言された町
津波が福島第一原子力発電所のメルトダウンを引き起こしてから4年半、人びとが町に戻り、暮らしはじめた

【福島県楢葉町発】ジャスティン・マッカリー Justin McCurry 
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楢葉町の自宅でくつろぐ山内コウヘイさん、トモコさん夫妻。Photograph: Justin McCurry for the Guardian

葉町の山内コウヘイさん、トモコさんご夫妻の自宅居間におじゃまするのは、当惑を覚える経験である。畳の床に戸棚が設えてあり、こけし人形が何列も並んでいる。片側には、昔ながらの幸運の前兆、大きな達磨さまが鎮座している。壁にかけられた白黒写真の額縁から、トモコさんのご先祖たちが見下ろしている。

これ以上に清潔なお宅を想像するのは難しい。それでも、山内さんのお家は、絵のように美しい福島県の町の住宅すべてと同じように、4年半のあいだ、無人になっていたのである。

2011312日のこと、楢葉町の住民は直ちに避難するようにと指示された。その前日、日本の北東沿岸部は史上最大級の強烈な地震の揺れに襲われていた。

地震が波高46フィート(14メートル)の津波を引き起こし、ほぼ19,000人の死者を出し、福島第一核発電所の三重メルトダウンのきっかけになった。

山内家が津波による暮らしの大損害に思いを巡らしている丁度その時、彼らは、第二の目に見えない脅威――ほんの12マイル(19キロ)北方、福島第一からの大量放射能漏れ――に直面させられていた。

先月、福島県内の被汚染市町村で初めて楢葉町が人の居住適地と宣言されたあと、町に帰還した少数の住民のひとり、コウヘイさんは、「子どもたちはここに帰るなと、わたしたちにいうのです」という。

仮設住宅から別の仮設住宅へ――山内家は災害からこの方、6回も移っていたのであり――引っ越しを繰り返すストレスは、放射能に抱く不安に勝っていたし、79歳と高齢であることもあった。

下生えの茂みから舳先が覗く、楢葉町で4年半、放置されてきたモーターボート。Photograph: Justin McCurry for the Guardian/Justin McCurry for the Guardian

「放射能被曝で癌になるのかと心配しても、歳が歳ですし。年取った人たちが大勢帰ってくると思いますが、その子どもたちや孫らは無理です。ここで子育てはむつかしいでしょう」

楢葉町の役場職員たちは、核メルトダウンから5年近くたって、近場の都会、いわき市の仮設住宅やアパートで暮らしている数千人をはじめ、町民の多くが町外で再出発しているという単純な現実に直面している。

楢葉町の松本幸英町長は9月初めに避難指示を解除したとき、「止まっていた時計の針が、いま再び動きはじめました。わたしたちは町の復興に邁進(まいしん)しなければなりません」と述べた。

日本の安倍晋三首相は楢葉町を、いまだに帰宅安全宣言を与えられていない他の福島県民、約70,000人にとって、希望の道標になると褒めそやした。

2011年、楢葉町の破壊された通りをうろつく見捨てられた犬。Photograph: Air Rabbit/Getty Images

それでもなお、陽光を浴びた金曜日の午後だというのに、ほとんど無人の楢葉町の通りは、場違いの楽観主義にまつわる教訓を見せつけているといったほうが相応しい。

役場職員によれば、災害以前の人口、7,400人のうち、先月からこのかた――子どもがほんの2人を含め――200人か300人だけが町に戻っている。帰宅を決めた人たちの大半は退職者であり、彼らの姿はどこにも見ない。町役場の近くのプレハブ・アーケイドで見かける買い物客や食事客のほとんどは、町の荒廃した社会基盤を修復するために投入された1,000人の建設作業員たちである。

地震で傷んだ道路の天辺はいまだに通行止めになっており、建築業者たちが中学校の新築校舎の仕上げ作業にかかっているが、この学校には、2017年春まで開校する予定がない。その時になっても、教える相手の子どもたちがいるかどうか、保証の限りではない。

豪勢な木造家屋が無人のまま建っており、その窓枠は泥棒よけの分厚いテープで封印されている。荒れ果てた給油所のアスファルト舗装を破って、雑草が茂り、昨年6月に列車のが走りはじめた町の鉄道駅の外では、放置自転車が何十代も集められて、錆びついている。

「これは実質的にゴーストタウンです。多くの人たちがうろついているのが目に付きますが、みな建設作業員であり、災害前に寄り添って暮らしていた人たちではありません」と、いわき市から楢葉町の料理店に通勤しているワタナベ・セイジュンさんはいった。

ワタナベさんの自宅は地震で被災し、さらに無人になっていた4年半のあいだに動物に荒らされていた。56歳になる彼は、「そこら中、動物の糞だらけで、もう誰も住めません。わたしの妻とわたしは、それを取り壊して、同じ土地に自宅を再建し、5年か10年後に戻ってくる計画を立てています」といった。

「将来になにがあるか、知るのは不可能ですが、この場所が元通りになるとは、わたしは考えていません。70歳代や80歳代の人たちの多くは帰還に関心があります――が、30歳代と40歳代、特に幼い子どもたちの両親に、そんな人はひとりもいません。この辺りは、美しいですが、暮らすには、実に不便です」

地震で損傷した楢葉町の道路の割れ目から生い茂った雑草。Photograph: Greg Baker/AP

100世帯が放射線レベルの異常な上昇を報告し、再除染作業を要請しているものの、役場職員たちは、住宅地、学校、店舗、公共建築物の周辺から汚染土壌を除去する骨の折れる作業は終了したといっている。

公的な計測値によれば、町内の平均空中放射線レベルは、1時間あたり0.3マイクロシーベルトであり、1年あたりに換算すれば、3ミリシーベルトより、ほんの少し低い。これは、政府が設定した1年あたり1ミリシーベルトにまで下げる「野心的目標」――専門家たちが非現実的なまでに低いと批判してきた目標――より少々高い。たいがいの専門家は、1年あたり100ミリシーベルトより高くなれば、癌になるリスクがほんの少し高くなるということに賛同している。

住民の帰還に向けて楢葉町の準備を整えてきた役場職員80人のひとり、猪狩祐介さんは、「わたしどもの目標は、全員に戻っていただくことですが、厳密な予定はありません。もう5年か10年、あるいはもっと待つ人もいるでしょう」と語った。

「わたしたちは、他の町や村のために、復興のモデルになりたいと思っています。わたしたちに、当地でみなさんの暮らしを復旧させることができなければ、ほかの町村にもチャンスはありません。それについて、わたしたちは重大な責任を感じております」

フクシマ危機の最も決定的な日々の鍵を握っていた重要人物たち、そして放射能で汚染された地域社会からの避難を余儀なくされ、いまだに核の辺獄に生きている10数万人のうちの何人かの人たちの話を聞いた。

小泉シンペイさんは、楢葉町での家族の暮らしを思い浮かべることができる数少ない人たちのひとりである。地震で揺れ落ちた屋根瓦の葺き替えを終えた、この65歳の大工は、「わたしの母と娘は、是が非でも戻りたいと思っていましたが、他人に修理費を渡す金がないので、わたしが家を修繕するようにせがんでいました」といった。

だが、いわき市内の仮設住宅に住んでいる小泉さんは、家族と一緒に帰らない。「お偉いさんが水を飲んでも安全だと言っても、信用できないし、適当な店がなく、コンビニが2軒と自動販売機があるだけです。それに、周りにだれもいない。今いる所にいるつもりです」。

日本最悪の核事故における楢葉町の位置付けの顕著な証拠が、町外れの広大な地面を覆っている。低レベル核廃棄物を詰めた約580,000の黒い袋が、かつて農民たちが地域の名高かった米と野菜――たとえ安全性が宣言されても、放射能が福島ブランドに押しつけた痛手で損なわれた農産物――を栽培していた農地を覆いつくしている。

楢葉町の仮置き場に放射性廃棄物の袋を設置する作業員たち。Photograph: Greg Baker/AP

それでも、ポスト・フクシマ版の町民生活の優しい動きがあちらこちらにある。スーパーマーケットと移動銀行に併せて、2軒のコンビニエンスストアが営業を再開し、地域の郵便局の業務も間もなく再開される。住民たちは、来月になれば、新しい診療所と信用組合で健康や金回りのことを語り合えるようになる。

政府は、破壊された施設に最も近く、最大に汚染された地域を除くほかは、すべての避難指示を20173月までに解除したいと望んでおり、1世帯あたり100,000円の帰還費用を提供している。

楢葉町では、福島県内の他の市町村でもそうだが、災害の責任をだれに問うべきかを巡って、意見が割れている。東京電力批判派を探すのはむつかしくないが、他にも、故郷の町が原発立地自治体としての地位から莫大な補助金と雇用を得ていたことを覚えている人たちもいる。「これはだれのせいでもないとわたしは思います」と、ワタナベさんはいった。

楢葉町の近くに捨てられた車のそばの未知を横切って育つ蔓草。Photograph: David Guttenfelder/AP

「この地は東京電力からお金をたっぷり受け取っていましたので、わたしたちは一定の生活水準を享受することができました。つまり、近くに原子力発電所がない場所よりも、お金と資産があったのです」

家族が7世代にわたって同じ家に住んでおり、引退した農民である山内さんは、責任の所在を問うのを渋っていた。彼がいうには、帰宅して、こけしと達磨のコレクションに囲まれ、先祖たちに見守られて、ホッとしているとのことである。

「起こってしまったことに、腹を立てたり、辛辣になったりしても、なんにもなりません」と、山内さんはいう。「それでは、なにも変わりません。わたしたちがやりたいことは、前を見つめて、再び毎日を生きてゆくことです。いつでも帰ってくるつもりでした…これがわが家なのです」。


【クレジット】

The Guardian, “Safe at last? View from Naraha – the first Fukushima community declared fit for humans” by Justin McCurry.
本稿は、公益・教育目的・非営利の日本語訳。

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マイクル・シュナイダー:いくつかの世論調査、研究によれば、帰還すると決めている人たちの割合は避難者全員の5分の1であると示されており、まだ決めかねている人も多いですし、ほぼ半分が戻らないと決めています。人びとは――放射線状況に加えて――帰還する場所の状態を考えなければなりません。日本の家屋の多くは木造であり、基本的に極めてひどく損傷しており、完全に建て替えなればならないことを忘れてはなりません。

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